酷い夢を見た気がする。
狭いシャワールーム、従属の左胸輝くナイフ、滲む鮮血。
貫く鉄槍穴だらけ、開いた瞠目、染まる青色。
誰かの悲鳴を聴いた気がする。
宙ぶらりんの親友に、針千本と刺さるナイフ、首筋絡むワイヤー一本。
誰かの慟哭を聴いた気がする。
紐一筋、揺れる少年、割れた頭から垂れる赤筋、溜まる血潮。
誰かの泣き声を聴いた気がする。
逃げ出す長身、貫く弾丸、額の風穴、割れたレンズ。
誰かの嘆きを聴いた気がする。
陥没頭部、沈む血の海、青色髪に砕けた色彩白墨塵芥。
潰れた頭から、薄目黄緑流れる滴、掠れた謝罪に朦朧懺悔。
誰かの悲しみを聴いた気がする。
赤々長髪振り乱し、器刺さる杭、爆発四散、散り散りの血飛沫。
誰かの狂気を聴いた気がする。
音を無くした赤い青年、凭れ微笑む口元一筋、汚染された血液。
砕ける機械兎、夢幻、破片残骸、涙も無い。
誰かの盲信を聴いた気がする。
押し潰された肉塊、投げ捨てた手帳、金の毛髪。
誰かの絶望を聴いた気がする。
白色少女が寄り添った。
橙少女は涙を拭いた。
赤紫の青年は笑った。
俺は。
俺は、
前を向いて歩き出す。
希望の言葉を確かに紡いだ。
何かが、割れる様な、水膜が破れる様な、これが初めての音。
「ほう? 成功か……」
赤銅色の髪を僅かに流して腕を組む男の赤紫の瞳が揺れて、ほくそ笑む。
これが初めての視界。
初めての呼吸は、少し乱れていた。
何となく、思った。
「……怠い……」
それが、初めて発した意味合いが有る振動。
ただ立って居るだけで怠い。
全身が重い。面倒臭い。
言い様の無い重圧感にその場に座り込んだ。
「ふむ。 やはり不完全……いや。
想定範囲内、と言うべきか?」
嫌に気に障る喉を鳴らす様な笑い声を溢して、男は言葉を続けた。
「確定が必要だ、お前の名前は?」
名前?
言われてはたと気付いた。
『俺』は、一体何者なのか?
記憶を探そうと脳が動き回るが、そもそも探すべき記憶が無い。
家族も、どうやって生きてきたのかも、俺自身にも、あてが無い。
「……」
「質問の意図が解らなかったか?
お前は、誰だ? そう訊いている」
俯いて黙り混む俺に俺は矢継ぎ早に同じ質問を繰り返した。
煩ぇよ。そんなの、俺が知る訳無いだろ。
「早く応えた方が身の為だが?
何時までも未確定では居られないからな」
疲労に思考が鈍っていく。
荒い呼吸、汗が流れ落ちてコンクリートを濡らした。
俺は、俺は、『俺』は『誰』だ?
やがて、声が聴こえた、気がした。
「っ、……」
「聴こえんな」
「俺、は、蓮見……音繰……だ」
見下す赤紫を睨み付ける様に、紡ぎ出してやっと吐いた、振動。
振動は音に鳴り、音は言葉になった。
「そうか……ククッ……」
俺は、満足そうに笑った。
成程、コイツはマトモじゃ無い。
そう思わせるには充分な笑いだった。
不思議と、身体を押し潰していた感覚が少し和らいだ気がして、膝に手を当てて立ち上がる。
「動作不具合は今の所無しか。
だが、やはり、そうだな」
鬱陶しい汗を手の甲で拭い去る。
この男は、一体何なんだ?
「身体が、辛いか?」
「は? まぁ……怠い」
「そうだろうな。コレを使え」
投げられたソレを反射的に掌で掴む。
思ったより小さく、硬質な触感に指を開いた。
銀色のピアスが一対。
そこにあった。
「俺、ピアスホールなんて、有ったか?」
不審に思って耳に触れると、微かな触覚。
何時空けたのか記憶には勿論無いが、自然な動作でソレを身に着けた。
途端、また身体が軽くなる感覚。
「……」
明らかに変で、理解出来ない出来事だ。
暫く自身の指先を眺めていた俺に、音が届く。
「動けるなら来い。
そこで呆けて居たいなら、別だが?」
気が付けば俺は背を向けて歩き出していた。
膝丈程のローブの裾が揺れて行く。
「…………面倒臭ぇ……」
一人ごちて、俺は男の後を追った。
それが、初めての一歩だった。
「俺と、ともだちになって下さい!!」
唐突に浮かんだのは、幼い頃の精一杯の告白だった。
思い起こせば、君が泣いている記憶が無い。
それは君が俺にすら見せないからだろう。
本当は、苦しかった時も悲しかった時もあった筈なのに……
歳に似合わない白っぽい髪も、夏になっても首に巻く布も、何時も持ち歩く刀も、君は笑わなかった。
喧嘩らしい喧嘩もして来なかったのを思い出した。
それは君が俺と対等で向き合った結果なのも知れないし、ただ耐えてくれていたのかも知れない。
俺は、英雄に、なったよ。
俺の声、聴こえるだろうか?
遠く離れた親友よ。
少しは俺も強くなれただろうか?
君に胸を張って笑えて居るだろうか?
あの日、弱かった俺は君に守られたから。
これからは、この先も、君を守りたいと思う。
君が、俺に守られるほど弱くは無い事位は重々承知だ。
「そんな事、気にするなよ」
馬鹿だなぁ、なんて、笑ってくれて構わないよ。
これは、俺自身の誓い。
ずっと君の、親友で在りたいから。
「勇音!」
「どうした?颯刃」
ありがとう。
大好きなともだち。
乾いた紙擦れの音が鳴る。
1枚、また1枚と捲られたページは小さく風を起こして静止した。
ページに記されているのは、昔々。もしくは異なる世界線に存在していた女神の話。
全てに裏切られて、棄てられた女性は、憎み、呪い、復讐の女神として生まれ変わった。
「……良く有る話だよなぁ、確かランダもこんな感じだっけよね?」
ランダとは、捨てられた子供達を拾い、愛した女性。
彼女もまた絶望して子供達を喰らう魔女、邪神と化した存在……と、何かの文献で見た気がする。
「君の創作意欲は結構なんだけど、僕に何の利点が無いのは不愉快だね」
何気無い問いの返答は溜息混じりの嫌味。
今更気にも止めない事だ。
単調な音が響く。
青紫の瞳はただ文献の文字を追い、その脳は抽象的で曖昧な女神の姿を探求する。
「復讐と結婚は紙一重、って事かね」
閉じられた本と同時に呟かれた言葉に、青い瞳が怪訝そうに視線を投げた。
「うん。まぁそんな感じ?」
「いや、何が?」
「えっ?」
「え、じゃ無くて。結婚がどうとか言っただろう」
あぁ、と合点がいった顔で頷く。
無意識の呟きだった。
「復讐の女神の名前。並び替えると結婚の約束だから」
「は?」
虚を突かれた顔の仲間を尻目に椅子を引いて部屋を後にした。
白い紙に線が走る。
醜くも美しくも無い、女性の曲線。
長い髪が靡き、その表情は喜びとも悲しみとも見えた。
愛とは、時に酷く身勝手な暴力。
自由とは、時に雁字絡めの束縛。
希望は絶望の別称であり、光とは影と共に起こる現象。
一心不乱に、尖った鉛筆が走る。
ぼかし、汚し、主張する。
やがて現れた女神は、強く優しく柔和な憂いを抱く一人の女性。
「悲劇は女性に注がれるからこそ美しい、ってね」
「男尊女卑?」
いつの間にか後ろに立っていた緑の瞳が睨む。
「違うよ〜、女尊男卑的なやつ?」
「これ、誰?」
「女神様、もしくは一人の女性」
「答えになって無い」
「んん〜……そう言われてもなぁ……
俺のヘンリエッタが視た存在だし?」
そう笑って自身の左目を指せば、異物を見る視線が刺さる。
「何それ……キモイ……」
「あぁ、誤解しないで!?
俺の一番愛してる女性は当然きっ」
言葉が完成する前に、腹部に重い一撃が叩き込まれる。
咳き込む姿すら確認せず、彼女は颯爽と去ってしまった。
「……そこも、好きだけどね……」
目線を動かせば、女神が笑った気がして、苦笑する。
復讐に駆られる程の結婚の約束を、君とならしても良いんだ。
君が不幸を振り撒いて、絶望に引き擦り込もうとしても良いんだ。
「俺は愛してる」
誰も居ない部屋で女神に告白を。
青年は一人、四肢を投げ出し椅子に凭れて笑った。