「ねえ、不死川君」
その日は風が少し強く、空には雲が広がっている。
たまに切れ間から射す月明かりが辺りを弱々しく照らしていた。
時折、水面が跳ねる音が聞こえる。
どうやら水辺が近くにあるらしい。
合同任務。と言うと下弦レベルの鬼退治だと思うが、実際は討伐に時間がかかっているんだとか。
そんなに手強い相手なら俺が塵芥になるまで刻み尽くしてやる、と怒りに震える反面
下弦の鬼でもねぇ雑魚に手間取ってるんじゃねェ、という隊士に向けての呆れもあって
俺の胸中はちっとも穏やかじゃなかった。
そんな中、合同任務の相手が花柱の胡蝶カナエときたもんだ。
蝶のように、ふわふわしていて危なっかしい女。目を離すといなくなってしまいそうな、儚い雰囲気をまとう女。
俺はそんなコイツのことが、理由もなく気になっていた。
そんな状況だから、気もそぞろになってしまう。
「なんだよ」
つい強めになってしまった語気にも動じず、胡蝶は言葉を続ける。
「湖が近くにあるのかしら。小舟で沖に出てみたいわね」
「はァ?」
何言ってんだ、コイツ。
こんな暗闇の中で舟なんか出してみろ。
「死にてぇのか」
俺の一言に胡蝶は「ううん」と首を横に振り、それから静かに笑った。
「湖の真ん中から見上げる月はきっと綺麗なんだろうなって」
「月?」
空を仰ぐ。
ちょうど話題に出たそれは雲の中に隠れているらしい。
「言っとくけどよ、たとえ近くに湖があって舟があったとしても絶対乗らねぇぞ」
「私が貴方と舟の上で口付けしてみたい、って言っても?」
「は、」
間抜けな声が出て、無意識に足が止まった。
動揺している俺を無視するかのように、胡蝶はスタスタと歩を進めていく。
「お……おいこら、待て!」
「なに?」
くるりと、何事もなかったかのように振り返る胡蝶の元へ大股で近付く。
「テメェ、今この状況分かってんのかァ。巫山戯たこと言ってんじゃねぇぞ」
「冗談に聞こえた?」
上目遣いで見つめられ、思わず目を逸らす。
くそ、調子狂うぜ。
心境の変化を見抜かれる前に、話題を変えた。
「……大体、月見なんざ湖の上じゃなくても出来るだろォ」
「ふふ、そうね。お月見には相応しくないかもしれないわね」
でも、と呟くように言い
胡蝶はもう一歩、俺との距離を詰めた。
「舟に乗ってしまえば二人きりになれるでしょう?風柱でも花柱でもなく、鬼殺隊の一員でもなく、ただの男と女になれる気がするの」
ただの男と女。
そんなもんになってどうするんだ。
俺達が普通の人間になったところで鬼がこの世から滅ぶ訳でもないし、失ったものが戻る訳でもねぇ。
世迷言だ。こいつの妄想だ。
──頭ではそう考えているのに、心のどこかでは
陽の光の下で、俺と胡蝶が仲睦まじく歩く光景を想像してしまっている。
もし、俺達が鬼を知らない
普通の、男と女だったら。
どんな未来が待っていたのだろう。
風が強く吹いて、白い光が胡蝶の輪郭を薄く縁取る。
「……ただの男と女になって、それからどうするんだァ」
思ったことを、口にする。
そうね。一呼吸置いて、紅を纏った唇が動く。
「普段話さないような、取り留めのないことを話したいわ。すっかり春らしくなったわね、とか、新しい甘味処が出来たらしいわよ、とか」
「……」
「……バカみたい、って思う?」
それまで楽しそうに話していたのに、急に寂しそうに微笑む、から。
「……チッ」
俺はどうしても、この女のことを
放っておけないのだ。
「……たら、」
「え?」
「もし雲が晴れて風が止んで辺りの鬼を一掃して月が出たら、一緒に舟に乗ってやるって言ってんだァ」
「あら、いいの?」
俺は何も言わず、歩き出す。
夜はこれからだ。