※完全に自分用です

昭和7年10月8日、我が地元に誕生

8歳か10歳の幼い頃、空襲の爆風で崩れた屋根の下敷きになり、右足に大怪我を負った。膝を曲げたり伸ばしたりができない。走ることもジャンプすることもできず、左右で足の長さも違う。
そして当時の木材か石ころの破片か何かが傷口に残ったまま。

昭和の当時では、身体に障害があるというだけで、差別の対象になるのが当たり前だった。学校でも就職でも。けれどもこの人は違った。
関西の某大学の文学部ドイツ語に進学、ドイツ語を専攻し、そして短期の語学へ。
これはその当時の常識からしたら、エリート中のエリートのコースというやつだった。
大学卒業後は地元の農協に就職、銀行の窓口的な仕事をしていたわけだが、やっぱり「あの人が立っている窓口には行きたくない」みたいなクレームが来たりしたらしい。

対応が悪いとかじゃないですよ。見た目だけでそんなん言われる時代だったんです。歩き方が変っていうだけで。

それでも諦めて折れることのなかったあの人は、三重県からやってきた1つ年下の女性と結婚、子どもも3人もうけて、最終的には農協の参事までポストを上り詰め、歴代幹部のパンフレットにその名前と顔写真が、きっちりしっかり記録されることとなりましたとさ。

孫は6人できましたが、その第1号こそワシでしたというお話。

ここまでが、私の知らない、見たことのないおじいちゃんの話。
私が知ってるのは、庭で趣味の畑仕事をしたり、でもすぐ疲れちゃうから、ジロ(ワンコ)の隣で日向ぼっこしながら煙草吸ったり

毎週火曜日、片道40分かけて私を自転車の荷台に載せて、習い事の場所まで連れてってくれたり。今こうして考えると信じられないよ。歩くだけでも一苦労なのにさ。片足でペダルこいで、何十分も毎週毎週さあ。

そしてワシらにワンパターンの手料理を作ってくれたり(本当にワンパターンだった)。
けれども何年も経たないうちに、味付けがどんどん濃くなって、最終的には、食べられないような味になってしまった。

この先は今は書けない。

今は毎日とても悲しい。それでも仕事していて良かったなと思う。しんどいけど。仕事をしていなければ、自分を保てないね。いつもと同じ仕事がおかけで、かろうじていつもと同じ生活ができる。

けれども、これから時間が経つにつれて、今のこの悲しい気持ちも思い出も、思い出さなくなって、いつかは忘れてしまうんじゃないだろうか。
なぜなら、おじいちゃんと新しい思い出を増やすことは、2014年9月8日午後16時からもう、できなくなったからだ。
本人に質問することもできない。

どんなことにも終わりがあって、さようならがある。
だったら最初から何も無い方が良い、とさえ思ってしまう。間違った考え方だって分かっちゃいるけど、どうやって気持ち的切り替えたら良いのかも分からん。

このままでは、本当に何もかも忘れてしまいそうで、だけどそんなことは絶対に嫌なので、今こうして、覚えていることを残そうとしています。
自分用です、はい。

一週間、とっても疲れました。土日はゆっくりしよう。