MOVIX京都で、市川崑映画祭と称して、『炎上』が上映されていたので、見に行ってみた。(一昨日)
原作も読んで面白かったし、何より現代の映画館で白黒映画を見れるなんて、初めてだったから、というのが動機。



金閣寺を読み終わった時、なぜだか強い希望を感じた。

主人公は、確かにとんでもない、取り返しのつかないことをしてしまったけれど、自分の手で、自分の意志で、自分にまつわるしがらみを断ち切ったことで、ようやっと、「第二の人生」というにはお先真っ暗すぎるけど、自分の人生を生きることが、できるようになったんじゃないか、って思った。

でも炎上で、映画オリジナルでの後日談を見て、改めて思い知らされたわ。なんも変わってねー。驟閣寺(金閣寺)のクソジジイ達も、めんどくさい母親も、もう全然関わり合ってくるし、とてつもない犯罪を犯したことによって、今度は驟閣寺どころか日本中の人達から嫌われる、笑われる、馬鹿にされる。


罪を犯してでもやるしかない、やれば何か変わるかもしれない…。しかし、ギャラリーに世間という客が増えただけで、びっくりするほど何も変わらなかったとしたら

驟閣寺は、主人公を縛り付けていたすべてだったから、それを自分の手で葬り去ることで、やっと自分の人生を生きられる。そう思っていた。
だけど炎上で、焼け跡の池にぼんやりと驟閣寺の幻が浮かんで消えて行ったあのシーンを見て、決してそうじゃなかったんだと今更ながら分かった。

面倒くさい家族、お寺の薄情な人達、見栄と嘘、唯一の友達のようだった鶴川、父親との思い出、憧れ、感動…主人公にとって大嫌いなものから、最高のものまで、そのすべてが驟閣寺だった。驟閣寺が主人公のすべてだった。それを無くして、自分の人生を生きられるわけがなかった。

だけど、彼はどうすれば良かったんだろうね。
家族が駄目だったのか?
吃りの癖があるのが駄目だったのか?
生まれた時代が現代だったとしても、もっと良い道を歩めただろうか?