詳しくは知らないが、キリスト教には「原罪」という考え方があるらしい。
人間は、かつて神との約束を破って知恵を得たのだから、今生きてる人間も、生まれた時から罪を負っている、というようなものだったかと。

その罪に対する罰がもしも人それぞれにあるのだとしたら、私の場合は「結局人と繋がれない」だと思う。

生きていることに意味はない。いや、人の役に立つ仕事をしていたり、社会に貢献していたり、立派な夢を持っていたり、生きることに意味のある人はたくさんいる。そもそも生きる意味、生きてる価値というやつは自分で作り上げるものだ。一方で、生きる価値を他人に勝手に決めつけられてる人もいるし、そして私はそのどちらでもない。

生きていることに意味はないし、死ぬことにも意味はない。

この日本では、年間2万人が自殺で死に、45分につき1人が東京23区内で孤独死し、幼稚園や保育所に行きたくても行けない子供達が1万人いる。
それでも何も変わらない。生きようが死のうが何も変わらない証拠だ。

社会との繋がりの希薄な人が…などとニュースやら何やらで目にし、耳にする。
結局のところ私も、どうあがいても、そっち側のそういう人達のうちの一人、ということなんだろう。

衣食住も娯楽も、他人と共通の話題にしたり、共感し合ったりしなかったりするから、「こうすべき」とか「あれをしたい」「やってみよう」という気持ちになれるんだと思う。

話す相手も、報告すべき相手も、共感し合えそうな相手もいないとなると、衣食住も娯楽も、何の感情も伴わないし、何の価値もない。生命を維持するための簡素な手段以外の何物でもない。

そしてそういう人は、「救えない奴」になっていくんだろう。

何をしても、何を言われても、もう心が動かないからだ。

ある歌詞に「諦めてると僕らは なぜか少し生きやすくなる」とある。すごくよく分かる。この世のあらゆる「こうすべき」「あれをしたい」「やってみよう」と無関係になれる。本当に何も考えることも悩むこともなくなるんだろう。ただ死なない程度に生命を維持するだけでいい。

そんな意味のない人生の残りも、仕方がないと諦めればいい。ただそれだけの話。