夜の校舎窓ガラス壊してまわった

新型コロナウイルス、もといCOVID-19の感染拡大防止のため、世間では卒業式中止、入学式中止、あるいは入学式の翌日からゴールデンウィーク前後まで休校、なんてことになっている。京都市も同じく。

さて私は、かつての大昔、高校の卒業式の頃、一体どんなことをブログに書いたんだろうと思って、読み返してみた。

「この支、配、か、ら、の、卒業」
と書いてあった。

尾崎豊の「卒業」な。うん、今もその曲聴いてるよ。

最近はポケモンソードをまぁまぁ進め、そして終わらないうちにあつまれどうぶつの森をはじめてしまった。

さらに今はリトルナイトメアが気になっている。

マイスリー全部ゆめ

詳しくは知らないが、キリスト教には「原罪」という考え方があるらしい。
人間は、かつて神との約束を破って知恵を得たのだから、今生きてる人間も、生まれた時から罪を負っている、というようなものだったかと。

その罪に対する罰がもしも人それぞれにあるのだとしたら、私の場合は「結局人と繋がれない」だと思う。

生きていることに意味はない。いや、人の役に立つ仕事をしていたり、社会に貢献していたり、立派な夢を持っていたり、生きることに意味のある人はたくさんいる。そもそも生きる意味、生きてる価値というやつは自分で作り上げるものだ。一方で、生きる価値を他人に勝手に決めつけられてる人もいるし、そして私はそのどちらでもない。

生きていることに意味はないし、死ぬことにも意味はない。

この日本では、年間2万人が自殺で死に、45分につき1人が東京23区内で孤独死し、幼稚園や保育所に行きたくても行けない子供達が1万人いる。
それでも何も変わらない。生きようが死のうが何も変わらない証拠だ。

社会との繋がりの希薄な人が…などとニュースやら何やらで目にし、耳にする。
結局のところ私も、どうあがいても、そっち側のそういう人達のうちの一人、ということなんだろう。

衣食住も娯楽も、他人と共通の話題にしたり、共感し合ったりしなかったりするから、「こうすべき」とか「あれをしたい」「やってみよう」という気持ちになれるんだと思う。

話す相手も、報告すべき相手も、共感し合えそうな相手もいないとなると、衣食住も娯楽も、何の感情も伴わないし、何の価値もない。生命を維持するための簡素な手段以外の何物でもない。

そしてそういう人は、「救えない奴」になっていくんだろう。

何をしても、何を言われても、もう心が動かないからだ。

ある歌詞に「諦めてると僕らは なぜか少し生きやすくなる」とある。すごくよく分かる。この世のあらゆる「こうすべき」「あれをしたい」「やってみよう」と無関係になれる。本当に何も考えることも悩むこともなくなるんだろう。ただ死なない程度に生命を維持するだけでいい。

そんな意味のない人生の残りも、仕方がないと諦めればいい。ただそれだけの話。
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